2018年04月24日

古本”茶会と点前”


1週間前、昔の本で読みたいものがあったので岡山市内の古書店へ行った。
色々さがしても欲しい本が見つからない。
そんな時ふと目に留まった本があった。
それが『茶会と点前』という古書。
昭和39年発行の『図説茶道大系3』というA4サイズの271ページの本。
パラパラとめくってみると、茶事の種類とその解説。各流派の解説や流派ごとの点前の写真解説。
読んでみたくて買った。


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この中に当時の藪内の猗々斎家元が伏見稲荷で献茶をされている写真があった。懐かしい。
僕は昭和35年か6年に後楽園の栄西茶会で猗々斎家元とまだ若かった青々斎家元にお目にかかった。


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青々斎家元がまだ若宗匠だったころのお点前。やはり姿勢の隅々に若々しさが滲み出ている。
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先代家元と青々斎家元 昭和47年発行の「藪内家茶道入門」より
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青々斎家元 昭和63年発行の「籔内家の茶」より
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それにしてもズシリと重いこの本、昭和39年当時一体何円で発売されていたのか?
気になって最後のページを見るとなんと2800円とある。
昭和39年の2800円は現在の価値にするといくらになるのだろう?
たしか当時の大卒の初任給は2万円台。
と言うことは約10倍。
それならこの本、今なら定価28,000円。それを古書店で1000円で買った。

<追記>
薮内流青々斎家元は今年の3月にお亡くなりになられていました。
最近茶道と離れて流派の出来事に疎くなっていて今まで知らなかった。
青々斎家元とは、京都の家元の茶会や岡山での茶会などでお目にかかり、親しくお話もさせていただきました。
燕庵で濃茶をいただいたことや、大徳寺三玄院でのお点前を思い出します。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


2013年02月20日

君台観左右帳記


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最近、本棚から何年も開いたことのなかった古い茶の湯関連の本を取り出して読んでいる。
その中の1冊に『君台観左右帳記』がある。
これは茶の湯の成り立ちを見る場合の基本の本と言ってもよいのではないか。
とくにこの世界文化社から出た訳注者の「村井康彦文学博士」による本書は実にわかりやすく解説された好著である。


茶の湯(茶道)は利休により完成されたと多くの人が考えているようですが、そこに至るまでにはまず多くの数寄者が試行錯誤を繰り返しています。(こういった話もいつかはしてみたい。)
『君台観左右帳記』の成り立ちは1363年ころとされ、利休の活躍した1580年代から200年以上古い時代です。


その出発点として“会所”という場所がある。
ここでは茶会はもとより花会や和歌・連歌の会などが催される会場とされた建物があり、それが新しい建築様式である書院造りとなっていく。
その座敷飾りの室礼(しつらい)として考えられたテキストのようなものが『君台観左右帳記』と思えばよさそうです。


ここで飾るものとしていわゆる“唐物”の等級付けがなされている。
当時の文人の芸術品を観る目の高さがわかる。それは現代にも通じる一級品であり現在国宝となっている唐物はここでも「上」となっているようです。
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当時の上流階級では唐物を持つことがステータスであった。
いわゆる唐物偏重と言われるくらい会所や書院座敷で飾られるものは唐物でした。


この座敷飾りで大きな役割を果たしたのが「同朋衆」と言われる人たちで、彼らは室町将軍に近侍し幕府の中で雑事を司る一群の人たちのことで阿弥(あみ)号を持っていました。
職掌として絵もよくし連歌の宗匠でもあり唐物の目利きにも長けていたところから同朋衆が体験的に考案した室礼の集大成を能阿弥や相阿弥が完成させたものが『君台観左右帳記』となったものらしい。
この阿弥が茶の湯の成立に深く関わったことが禅宗と茶の湯のつながりになっていく。(この話もいずれ・・)


それにしてもこの中の絵画にしても陶磁器にしても漆器にしてもすばらしいと言うほかない。
侘びさびの考案の原点にはこうした唐物偏重の反動があったのだろうか。
持たざる者、持ち得ざる者の工夫が侘びに繋がったのか?

2012年12月28日

茶道の礼法について

きょうのlivedoor NEWSに茶道の礼法に古い朝鮮半島の王朝の「新羅の礼法」が採り入れられていると主張する記事が韓国系メディアに掲載されているそうです。
そしてこの記事に対する茶道家の反論が見られます。


茶道・茶の湯については別の日に色々私の感じたことを述べたいと思っていますが、茶の湯については室町時代の書院のお茶から“闘茶”、さらに佐々木道譽などのいわゆる「ばさら」の遊びとなり、しだいに遊芸の一つとして興ったもののようです。


そして、将軍義政の同朋衆の一人であった能阿弥に始まる東山流茶道から書院茶ができ、さらにこれとは別の流れから村田珠光の侘び芽が出て、そこから100年経った頃、堺の町衆で利休の師匠武野紹鴎が草庵茶室の元となる茶室を造ったころから遊芸として確立されていったようです。


私は茶室の原点は八代将軍足利義政の隠居後の暮らしの拠点となった慈照寺、通称銀閣寺にある東求堂の中の義政の書斎であった同仁斎だと思う。

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<東求堂>
いつか・住もう・京都様より写真をお借りしました。


そのころまでの茶道にあまり新羅や李朝の影響は見られないように思います。
ただ当時の上流社会の美意識に舶来品に対する強い憧れがあり、それが唐物偏重となり、さらに高麗ものなどを茶の湯の道具に使うことが一等茶人としての資格になっていたようです。


茶の湯が茶道として確立するのはやはり利休からでしょう。
その利休の考案した茶室はそれまでの武野紹鴎の四畳半茶室に見られない工夫がいたるところに見られる。
その最たるものが「躙り口」と呼ばれる高さ約66cm、幅約63cm程度の茶室の入り口ではないだろうか。


この「躙り口」などは通常の日本人の暮らしの中では発想ができないものです。
後世の人たちはこの躙り口を、何びとも茶室のなかでは平等だから入り口から頭を低くして謙譲の態度を見せるのだとか、色々後付けの理屈を言いますが、私は利休の茶室の考案には李朝時代の民家を参考にしたのではないかとあるときふと思ったことがあった。
そう思った根拠があったはずなのだが何だったか今は思い出せない。


きょうのlivedoor NEWSを読んでふと利休のお茶室を思い出しました。