2017年09月15日

「村上朝日堂」

 我が家の文庫本の本棚は1段の中に奥と手前の2列にしまってある。
従って当然手前の文庫本はいつも目に留まっているが、奥側の文庫本は何があるのか忘れている。
それで思いついたように手前の本をまとめて出して、奥側の本を覗くことになる。

今日ふと上から2段目の奥側の本を覗いたら村上春樹の文庫本が並んでいた。(春樹さん、奥にしまい込んでごめんなさい)
並んでいたと言っても何十冊もあるわけではない。
「海辺のカフカ」「ノルウェイの森」「アフターダーク」「ダンス・ダンス・ダンス」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「1973年のピンボール」程度。
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最初「海辺のカフカ」から入ったのだけれど、読むのに時々疲れた。
それぐらい僕には村上ワールドは何かちんぷんかんぷんなところがあった。
それでもむつかしいままに「ノルウェイの森」や「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいた。

ある時、ドライブで峰山高原ホテルリラクシアに行ったとき、『これは直子の療養所だ!』と何の予備知識もないままとっさにそのことが頭に浮かんだ。

村上春樹の作品は僕には昭和を連想させるものがある。
僕の学生時代や青春時代を思い起こさせる。その懐かしさを感じたくて村上作品を読んでいる。

「村上朝日堂」という「日刊アルバイトニュース」に連載されたコラムを集めた文庫本がある。
ここ2・3日これをポケットに入れて時間つぶしに読んでいる。
このコラムの出だしの記事がアルバイトという題の話で、村上さんが昭和45年頃にアルバイトをしていた話。
当時の平均的なアルバイトの時給は大体平均的な喫茶店のコーヒー代と同じで150円くらいだったそうだ。さらにタバコのハイライトが80円の時代だったらしい。
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こんな話を読むとやはり我が学生の頃を思い出す。彼女とのデートに使ったカトレヤと言う喫茶店のコーヒー代は一人が70円。
出たばかりのハイライトが70円の時代だった。
ヘビースモーカーだった僕には70円のハイライトに手が出なくって、40円のシンセイばかり吸っていた。
懐かしい昭和の話はまた・・・


2017年08月14日

終戦記念日

明日は終戦記念日。いや敗戦記念日。
昭和20年8月15日・・あれから72年が過ぎた。
僕が3歳と6か月。当時のことはなんにも覚えていない。
その前に空襲で裏庭の防空壕に誰かに抱かれて入ったことは覚えている。
記憶があるのは小学校に入る前の頃から。マッカーサーとか進駐軍という言葉は知っていた。
我が田舎町の当時国鉄の駅を、進駐軍の専用列車が猛スピードで走り抜けるのを何度か見た。
ジープに乗って我が町にもやって来た。

主食は麦メシ、またサツマイモを蒸かして食べていた。
配給の切符を持って母と近所の肉屋さんに行った記憶がある。
でもどこの家でも似たような暮らし。
特別に我が家だけが貧しかったわけでもない。
おもちゃもなくて外で空き缶を蹴って逃げる遊びを同い年の連中としていた。
何にもないけど懐かしい。できればあの頃に戻りたいと思う。





2017年07月23日

平尾昌晃さん

 今朝のニュースで平尾昌明さんが亡くなったことが流れた。
79歳だったとか。
平尾さんは歌手活動以外にもたくさんの歌を提供して
五木ひろしさんら多くの歌手を育てた。

しかし僕には平尾さんと言えば昭和33年、日劇ウエスタンカーニバルのあの熱狂のステージと、
「星は何でも知っている」「ミヨチャン」がいつもオーバーラップする。
この歌、一番だけなら今でもスラスラ歌える。

僕が高校2年生のころ。青春時代の入り口付近。
日本の高度経済成長の始まりのころだった。

先日7月20日はアポロ11号の日、翌21日はアポロの日。
昭和44年の7月20日にアポロ11号が月面に着陸。
この年の3月に生まれた娘を横に寝かせながら妻とテレビを観た。

とうとう人類が地球以外の天体に行ったという感動があった。
まさにアームストロング船長が言った
『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な飛躍である』
という言葉が実感された。

だけどこのテレビ放送を観たのは白黒テレビだったかカラーテレビだったか、記憶がない。



2016年10月07日

気まぐれで再開です。

 何年もほったらかしていたHPやブログがあったのだけどログインのIDやPWがさっぱりわからない。そんな中でこのサイトにログインできたので、このブログをまたまた再開します。

 なぜ再開する気になったのかというと、先週庭木の剪定をしていて2mほどの高さのブロック塀に立って枝切りしていたらバランスが崩れて地面に飛び降りたら足首を骨折した。
整形でギブスをして松葉杖生活。トイレに行く以外は布団の横に置いたノートパソコンの前で時間潰し。You Tubeを見たり。それでも時間があるのでブログでも再開してみることにした。再開の動機がいい加減なものなのでどんなことになるのか成り行きまかせ。

 こうして書いている僕のパソコンからCDへ入れた歌が聞こえます。
プレスリーの『好きにならずにいられない』(Can't Help Falling In Love )・フランク・シナトラの『My Way』。誰が歌っているのかわからない『アンチェインド・メロディリ』(Unchained melody)・『金色の髪の少女』(Sister Golden Hair)等々。
これらの歌をよく聴いたのは高校時代だったかな?昭和の香り、いや我が青春時代の香りで気持ちが和みます。
 そういえば昨日のニュースで大阪万博の太陽の塔の内部が公開されていた。懐かしい。2歳になった長男を車に乗せて、当時暮らしていた名古屋から渋滞の名神を走り、大混雑の会場へ入ったことを思い出した。
そうだ、このサイトを借りてもう一度戻りたい昭和の時代を書いてみよう。

2013年04月02日

長嶋さんに国民栄誉賞

長嶋茂雄さんに国民栄誉賞が贈られることになった。
僕は貰っているものと思っていた。遅すぎたくらいだ。


現在のプロ野球の隆盛の火付け役は長嶋さんだ。
もし、長嶋さんが現れていなかったら、現在のプロ野球はこんなに人気スポーツになっていなかっただろうと思う。


それまでにも人気の選手は多くいた。
川上哲治、千葉茂、青田昇、与那嶺要、杉田茂、そして金田正一。
与那嶺選手はよく打っていた記憶がある。ファンだった。
小学校から中学校とプロ野球は巨人だった。水原監督が好きだった。


日本の高度成長に合わせて長嶋が現れた。
僕には長嶋が日本の高度成長のエンジンの一つになったようにも思える。
この長嶋エンジンに火を点けたのが、昭和34年の忘れもしない展覧試合での阪神村上投手から打った劇的なサヨナラ本塁打だったと思う。
懐かしい・・・

2013年02月22日

消えてゆく方言の味

最近自分の娘に使い慣れた方言でしゃべると『それ、どういう意味?』と聞き返されることが何度かあって、はっと気がついた。
もうだんだんと地方独特の言葉がすたれて行っているのではないかということだ。これは少しショックだった。


小学校の時、東京から転校してきた子供がいて、その子のしゃべる東京の言葉が外国の言葉のように聞こえた。
当時はまだテレビもなくて標準語を聞くことはラジオだけだった。



だから地方の独特の言葉やイントネーションは浸食されることなく残されてきた。
ところがテレビの普及や交通手段の発展で国内の移動が活発になるなどで地方と中央の交流が活発になると地方の言葉がだんだんいわゆる標準語なるものに取って代わられるようになってきた。



最近 世界標準から取り残された日本独自の商品を“ガラパゴス”ということが言われているが地方の言葉、いわゆる方言にガラパゴスはないようだ。
どこの地方の方言も標準語の波に洗われている。



電車の中でおしゃべりしている女子高生の言葉に独特の方言はあまり聞かれない。
その代わりに独特の現代の若者言葉が飛び交っている。



いみじくもこのことを私の好きな作家、山形県鶴岡市出身の藤沢周平さんがエッセイ集『周平独言』の中で言っています。
ちょっと転記します。



「ことばの味」・・ 藤沢周平著『周平独言』より
『・・・ところでこういう方言の悲劇は、テレビ以前とテレビ以後で、ずいぶん変わってきたのではなかろうか。
最近の若い人たちは、恐らく私たちの年代のようには言語コンプレックスを持たないだろうし、仮に地方から東京に就職しても、東京言葉に馴れるのが早いのではないかと思う。
むしろ私は近頃、純粋の方言が失われることをひそかに気に病んでいる。
美しい単語、含蓄に富んだ言い回しなど、方言には捨てがたい味があるわけだが、郷里に帰っても、そういう本物の方言が、年々聞かれなくなってきたようである。
郷里に帰ると、私は出来るだけ正確な方言で話すことにしている。
そうするといかにも心が落ちつき、借りものでない言葉を喋っているという気がしてくるのだが、郷里の子供たちは、そろそろ私が話す方言がわかりにくくなっているようである。
最近二、三の小説に、私は郷里の方言を使っているが、失われていく方言に対する私の一種の焦燥感が、そういうことをやらせているとも言える。』 以上



・・・ 藤沢周平さんがこのエッセイを書いたのは“あとがき”の昭和五十八年から推測してさらに二、三年前なのだと思う。
方言がすっかりなくなる日がいずれ来るのかも知れない。

2012年11月20日

大相撲の珍事。

大相撲の九州場所も九日目。珍事があった。
審判は足が出ていると見て手を挙げた。そして土俵でがっぷり四つになったまま中止。
両力士とも何があったのかと言う顔。


実際には足は出ていなかったということで取直しとなった。
こんなことは僕の記憶にもない。


それよりもこの取り組みを記事にした読売新聞の写真を見ると会場のお客の入りが少ないのがよくわかる。
相撲ファンの僕としては最近の観客の少なさが気になる。
これは幕下の取り組みのころの館内と間違いそう。まさにガラガラ状態だ。


相撲と言えば僕の小学校のころだったろうか、横綱千代の山と大関大内山の対戦がまだ記憶に残っている。ともに猛ツッパリで応酬した。


さらにあの当時の力士なら今の現役の力士のしこ名よりも多くの名前が出てくる。
大関にどっしりとした三根山、突貫の松登、北葉山、横綱では東富士、太鼓腹の鏡里、不遇の吉葉山、そして栃錦、若乃花。


当時栃錦のファンだった僕は横綱になった栃錦がよく初日に負けていたのを思い出します。
あの当時は大相撲が一番手に汗握るテレビ中継でした。
懐かしい。

2012年11月13日

赤プリが消える

赤坂プリンスホテルが解体されています。
赤プリも昭和の一つの象徴でした。


芸能人の結婚式や確かドラフト会議も開催されましたね。
赤プリで食事をすることも庶民には大きなステータスでした。


昭和58年にオープンした40階建ての新館はまさに上り坂のピークを迎えた昭和の象徴でもありました。
“赤プリ”という言葉自体が昭和のセピア色に染まっていくのでしょうか。
寂しい(涙)

2012年11月12日

公園の手品師

晩秋の候
紅葉を楽しむのもわざわざ山岳地帯へ出かけなくても近所の公園で楽しめます。
さらに落ち葉がひっきりなしに舞い落ちています。
色づいた山々の遠望はまさに錦秋とも言うべき鮮やかさです。落ち葉となる直前の最後の見せ場を作っています。


この葉っぱが出来た春には目に染みるような若葉の瑞々しい美しさだった。
その葉っぱが春の美しさに引けを取らない、否それ以上にしっとりとした美しさで迫ってきます。
葉っぱの一生のまさに散り際の美しさです。


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公園のイチョウの葉っぱも黄色に色付いてもうすぐ落葉になるところ。
この公園のイチョウを眺める度に思い出す歌があります。
それがフランク永井さんの“公園の手品師”(宮川哲夫 作詞・吉田 正 作曲)


<2番の歌詞>
雲が流れる 公園の
銀杏は手品師 老いたピエロ
口上は いわないけれど
馴れた手付で
ラララン ラララン ラララン
カードをまくよ
秋がゆくんだ 冬が来る
銀杏は手品師 老いたピエロ


なぜイチョウが手品師で老いたピエロなのか解らないままこの歌をよく聴いています。


私はF永井さんの歌が大好きで今でも車の中でCDかけてドライブします。
やはりF永井の歌は半世紀も前になった青春時代を鮮やかに思い起こさせてくれます。

2012年10月10日

東京オリンピック

昭和39年の今日は東京五輪の開会式だった。
敗戦から19年。もはや戦後ではないということをこの日に実感したように思う。


東京〜大阪間の夢の超特急が直前に完成し、東京の街中を高速道路の高架が走ってその風景は当時の憧れの都市であったニューヨークのようだと思ったものです。
そして日本は益々大量生産、大量消費の時代へ、まさに高度経済成長を加速させるそのスタートが東京オリンピックだった。


東京五輪の懐かしい選手たちの顔が浮かびます。
日本選手ではマラソンの円谷幸吉、君原健二。体操で遠藤幸雄、小野喬。それに何と言っても東洋の魔女たちと監督の大松博文。オーバーアクションをしない鬼の大松の目にも涙が見えました。


新入社員だった僕は当時大阪の本社の休憩室で社長公認で対ソ連戦を観戦しました。
あの興奮から48年が過ぎた今、高度成長の坂道を上りつめ今は踊り場なのか下り坂なのか?

2012年04月03日

1958年

週刊新潮の記事で懐かしい昭和33年ごろの団地のことを書いていました。
当時は畳の部屋で食卓やちゃぶ台を出してご飯を食べたらそれを片付けて一家団欒。
そしてそこへ布団を敷いて寝る生活が多かったようです。(我が家もそうだった・・・)


だからダイニングキッチンを含む2DK「食・寝分離」が憧れの時代。
ステンレスの流し台に風呂、水洗トイレの団地生活は夢でした。


1958年当時の公務員の初任給が1万円。銀行員が1万数千円。
その中で東京多摩平団地の2DK(43平米)が5500円。3K(49平米)6300円。
そして団地の入居資格には月収が家賃の5.5倍以上。


そして当時の日本中で電気洗濯機が2軒に1台。電気炊飯器が3軒に1台。
電気冷蔵庫が7軒に1台。白黒テレビ14型が6万5千円で普及率が15%。
それでも家電製品の普及で家庭の配線が不足してたこ足配線でした。


ちなみにこの年の出来事で記憶に残っているのは巨人・長嶋茂雄選手の4打席4三振デビュー。
東京タワー竣工。富士重工業が「スバル・360」を発売。
そして本田技研工業が「スーパーカブ」を発売したのもこの年だったようです。


それから54年が経ちました。
日本はすっかり変わりました。当然と言えば当然なのでしょう。
我々も54年の間に学校を出て社会人となり結婚して子供ができその子供も結婚して
今や孫の守も終わりそうになっているのですから。