多感な年ごろ70+α歳

2012年12月28日

茶道の礼法について

きょうのlivedoor NEWSに茶道の礼法に古い朝鮮半島の王朝の「新羅の礼法」が採り入れられていると主張する記事が韓国系メディアに掲載されているそうです。
そしてこの記事に対する茶道家の反論が見られます。


茶道・茶の湯については別の日に色々私の感じたことを述べたいと思っていますが、茶の湯については室町時代の書院のお茶から“闘茶”、さらに佐々木道譽などのいわゆる「ばさら」の遊びとなり、しだいに遊芸の一つとして興ったもののようです。


そして、将軍義政の同朋衆の一人であった能阿弥に始まる東山流茶道から書院茶ができ、さらにこれとは別の流れから村田珠光の侘び芽が出て、そこから100年経った頃、堺の町衆で利休の師匠武野紹鴎が草庵茶室の元となる茶室を造ったころから遊芸として確立されていったようです。


私は茶室の原点は八代将軍足利義政の隠居後の暮らしの拠点となった慈照寺、通称銀閣寺にある東求堂の中の義政の書斎であった同仁斎だと思う。

tougudou4.jpg
<東求堂>
いつか・住もう・京都様より写真をお借りしました。


そのころまでの茶道にあまり新羅や李朝の影響は見られないように思います。
ただ当時の上流社会の美意識に舶来品に対する強い憧れがあり、それが唐物偏重となり、さらに高麗ものなどを茶の湯の道具に使うことが一等茶人としての資格になっていたようです。


茶の湯が茶道として確立するのはやはり利休からでしょう。
その利休の考案した茶室はそれまでの武野紹鴎の四畳半茶室に見られない工夫がいたるところに見られる。
その最たるものが「躙り口」と呼ばれる高さ約66cm、幅約63cm程度の茶室の入り口ではないだろうか。


この「躙り口」などは通常の日本人の暮らしの中では発想ができないものです。
後世の人たちはこの躙り口を、何びとも茶室のなかでは平等だから入り口から頭を低くして謙譲の態度を見せるのだとか、色々後付けの理屈を言いますが、私は利休の茶室の考案には李朝時代の民家を参考にしたのではないかとあるときふと思ったことがあった。
そう思った根拠があったはずなのだが何だったか今は思い出せない。


きょうのlivedoor NEWSを読んでふと利休のお茶室を思い出しました。